東北大学クラシックギター部の誕生と第1回演奏会

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宍戸 忠夫さん (ギター部創立時メンバー 昭和35年入学)の投稿「還暦徹弾会」より抜粋

 念願の東北大学へ入学叶った昭和35年の春4月の終わり頃は教養部の川内キャンパスは桜が満開でたいそう華やいでいた。かつての米軍キャンプ後の敷地に兵舎そのままの木造2階建ての長屋が沢山あり、そこが我々教養部の教室であった。我々はここをカマボコ教室と言っていた。まるでその格好はカマボコの形をしていたからである。そのカマボコ教室の長屋の前でポスター片手に「ギターの好きな方、一緒に弾いて楽しみませんかー!」と通る学生に笑顔で声をかけていたのが、同じ理学部同輩の助川秀和氏だった。私が渡りに船とばかり早速その話に乗ったのはごくごく自然の成り行きであった。彼の音頭で当初集まった学生は数名であったので当然ながら同好会からのスタート。部への昇格は半年後だったように思う。同好会から部に至るまでの過程は初代部長の助川氏が労を惜しまず努力された賜だった。村井さん、遠藤さんといった当時、クラシックギターを阿部保夫先生の弟でギターの名手の阿部慶司先生や、更に東京の京本先生等について勉強されていた正統派の一年先輩も参加しメンバーの中身もぐっと充実した。一気に20名弱の同好の士が集うこととなった。さて、大学側から割り当てられた部室はカマボコ教室の薄暗い2階の一室。裸電球の下で夕方の楽譜は見にくくて辛い。終戦当時進駐軍の兵士が使用していた部屋なのだから、殺風景な作りでもしょうがない。それでも学内でギターを弾ける贅沢が、当時の我々にはたまらなく嬉しく感じられたものだ。

第1回の演奏会は川内キャンパス内の講堂(川内記念講堂ではない)で開催した。昔は米軍の作戦会議などに使われたであろうその厳めしい講堂は、我々のギターの演奏で復興なった杜の都仙台に、平和の音色と響いたに違いない。中学時代からの友人で後でギタリストとなった菅田吉昭氏にも友情出演をお願いし内容は結構充実したものだった。曲目では「エル・ビート」、南米タンゴの「ラ・クンパルシータ」、「淡き光」、「ガウチョの嘆き」などのラテンナンバーを多く演奏したのを覚えている。プログラム製作代金を浮かすため、駅前の「つたや」、「第一」、「三立」と仙台ギター御三家の楽器店に広告をお願いしに奔走したものだ。何故か太平住宅にふと足を運んだらすんなり広告を出してくれたのを印象深く覚えている。この時以来毎年、東北大学ギタークラブの定期演奏会が、今日まで続いていると思うと感慨ひとしおである。