還暦徹弾会
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宍戸 忠夫 (ギター部創立時メンバー 昭和35年入学)

2001年6月2日は梅雨入り直前の久しぶりの爽やかな晴天に恵まれ、初夏のような日となった。中央高速を走る車窓からは新緑に混じって綺麗な草花が燃えるように咲き誇っていた。しかし草花音痴の私には、家内と同乗の金子さんの草花談義が全く理解できず、下手に話に入ろうものなら無知ぶりが更に露呈しそうなので、無言で蓼科高原へと急いだ。それと一部ルートを変更したせいもあって今回はG-CLEFには予想想以上の短時間で到着した。
休む間もなく、既に前夜からスタンバイの永倉氏と部屋で合流、早速練習開始。そこに向田氏が運転する多摩組みも到着。杜の三澤氏も加わって本番前のぶっつけの練習。還暦を過ぎてもこの本番前の緊張感はいつも楽しい。そこへ今日の主賓の一人、大物、助川氏の登場。さすが大物、現地集合し練習の約束だったのだがなんと早くも缶ビール片手に登場だ。ニコニコ顔のこの余裕がにくい。火事でも地震でも動じないこの姿勢。「こうでなくちゃー政界の大物と日夜仕事はできませんよ。」と彼の顔は言っていた。
さて、恒例の宮川氏の落ち着いた挨拶で2001年、我等助川、永倉、宍戸の3人の還暦祝い徹弾会が始まった。今回は星重昭氏に書いていただいた永倉、宍戸のためのギターデュオ「ソナタンゴ」の初演会でもあり、我々にとっては普段の徹弾会以上に意義のある、また緊張の会だった。更に最近一緒に演奏させていただいているクレッセンツフォーの方々の参加も、私にとっては大変嬉しいことだった。宮川氏の挨拶それに続く仲間の皆さんの演奏を、外の蓼科高原の爽やかな木立の風音とともに聞いていると、ギターを続けていてよかったとしみじみ思えてきた。音楽は勿論であるが音楽を通して素晴らしい仲間に出会え、今日まで豊かな人生を送ってきたことに大きな満足と感謝の念が湧き上ってくる。これぞ音楽をやってきた最高の幸せと心底実感した。

そう、その発端は今から41年前の青葉繁れる仙台の川内キャンパスにさかのぼる。
今回の還暦徹弾会を期に、当時の東北大学ギタークラブ創設時の思い出と徹弾会の誕生の経緯を、最近入られた徹弾会のメンバーにも知っていただきたく、拙文ながら「私のギター履歴書」なる回想文の一節から以下に紹介させてもらう。


途中省略...........

東北大学ギタークラブ

 念願の東北大学へ入学叶った昭和35年の春4月の終わり頃は教養部の川内キャンパスは桜が満開でたいそう華やいでいた。かつての米軍キャンプ後の敷地に兵舎そのままの木造2階建ての長屋が沢山あり、そこが我々教養部の教室であった。我々はここをカマボコ教室と言っていた。まるでその格好はカマボコの形をしていたからである。そのカマボコ教室の長屋の前でポスター片手に「ギターの好きな方、一緒に弾いて楽しみませんかー!」と通る学生に笑顔で声をかけていたのが、現在の徹弾会会長の同じ理学部同輩の助川秀和氏だった。私が渡りに船とばかり早速その話に乗ったのはごくごく自然の成り行きであった。この時からの縁で助川氏とは二人とも同じ神奈川に居を構えることもあり、今日に至るまで家族ぐるみのお付き合いをさせてもらっている。彼の音頭で当初集まった学生は数名であったので当然ながら同好会からのスタート。部への昇格は半年後だったように思う。同好会から部に至るまでの過程は初代部長の助川氏が労を惜しまず努力された賜だった。村井さん、遠藤さんといった当時、クラシックギターを阿部保夫先生の弟でギターの名手の阿部慶司先生や、更に東京の京本先生等について勉強されていた正統派の一年先輩も参加しメンバーの中身もぐっと充実した。一気に20名弱の同好の士が集うこととなった。さて、大学側から割り当てられた部室はカマボコ教室の薄暗い2階の一室。裸電球の下で夕方の楽譜は見にくくて辛い。終戦当時進駐軍の兵士が使用していた部屋なのだから、殺風景な作りでもしょうがない。それでも学内でギターを弾ける贅沢が、当時の我々にはたまらなく嬉しく感じられたものだ。第1回の演奏会は川内キャンパス内の講堂(川内記念講堂ではない)で開催した。昔は米軍の作戦会議などに使われたであろうその厳めしい講堂は、我々のギターの演奏で復興なった杜の都仙台に、平和の音色と響いたに違いない。中学時代からの友人で後でギタリストとなった菅田吉昭氏にも友情出演をお願いし内容は結構充実したものだった。曲目では「エル・ビート」、南米タンゴの「ラ・クンパルシータ」、「淡き光」、「ガウチョの嘆き」などのラテンナンバーを多く演奏したのを覚えている。プログラム製作代金を浮かすため、駅前の「つたや」、「第一」、「三立」と仙台ギター御三家の楽器店に広告をお願いしに奔走したものだ。何故か太平住宅にふと足を運んだらすんなり広告を出してくれたのを印象深く覚えている。この時以来毎年、東北大学ギタークラブの定期演奏会が、今日まで続いていると思うと感慨ひとしおである。平成12年の11月、東北大学ギタークラブOB有志が作る徹弾会の集まりがOBの植松氏の経営する音楽ペンションG-CLEFであった。最初の挨拶にギター部創立40年という言葉があった。私には学生服の助川君が川内キャンパスで部員勧誘していたことがまだ昨日のように思えてならない。部室での練習を終え、ギター仲間と夕焼けの仙台市内を見下ろしながら川内キャンパスを一番丁へと下ったあの頃の青春時代がとても懐かしい。


徹弾会

東北大学クラシックギタークラブのOBが20数年前のある年、東京で集まったことがあった。卒業以来久し振りに会う面々、はじめて会う先輩後輩、暫く忘れかけていたギター合奏、重奏への意欲が返り咲いた。いや狂い咲いた。その会合がきっかけで、後輩のギターの名手である三澤久詩氏が、ある時友人の結婚式出席の帰りに我が家に立ち寄った。当時流行った現代ギター社から出版されていたカルリ、ソルのクラシックギターの2重奏曲集、アルベニス、グラナドス、果てはムードギターのロス・インディオス・タダハラス曲集などギター重奏曲集を総なめに弾いた。二日間で締めて計14時間を弾きまくった。今思ってもよく弾いたものだ。このとき以来ギターデュオの楽しさ、素晴らしさが忘れられず、年代、生活環境の違いを乗り越え、いまだに重奏を楽しんでいる。私には音楽の感激が味わえる時こそ、何ものにも代え難い致福の時だ。さて彼が我が家に訪れたその時は、疲れを通り越して指先と頭がボーと燃えるよう。お蔭で数日間、頭はまるでサウンドホール。ギター残響が離れず、ろくろく仕事も身につかぬ後遺症が残ってしまい平常に戻すのに、だいぶ時間がかかった。それも一つの引き金になってか、在京の東北大学ギタークラブOBが東京で集うようになった。ところは初代部長の助川秀和氏が勤める日経連の原宿寮である。何といっても原宿である。ロケーションといい、気兼ねなく弾けるところといい素晴らしかった。ギター三昧を満喫した中年オジサンどもが夜な夜なギターをぶら下げ、若者でごったがえす原宿通りを闊歩する様は、ちょっと傍目には異様だったはず。しかし、その原宿寮も時代の流れには逆らえず、とうとう閉鎖となり、場所替えを余儀なくされた。しかし一度火がついたら多少の水では燃え盛る炎を消すことはできない。我々のギター熱は、益々悪乗り、エスカレートしていった。その様はまるで中年男性が若い娘に恋をしてしまったかのよう。行き着く果ては、遂に一線を越えてしまった。いっそ泊り込みでギターを愛しちゃおうということになった。場所は何度か重ねていくうちに5月連休は多摩の宮川宅、正月成人の日には横浜の三塚宅が定番となった。どちらも音楽に深いご理解のある奥様のお蔭である。10名近くのメンバーが泊り込みで音楽三昧するのだから、奥様の援助抜きでは到底成り立たない。感謝感謝である。その宮川夫人は誠に残念なことに、1998年の夏、癌の病で天国に召されていってしまった。彼女は次の世代を担う子供達の教育に、我が身を投げ打ち献身的な努力を続けられた立派な方だった。彼女の素晴らしい生き方については、学生時代に彼女に多大なお世話を受けてきた同世代のメンバーからの別稿に委ねたい。彼女の人徳もあってか、宮川宅での会はいつも大勢の素晴らしい音楽仲間が参加した。ある宮川宅での会だった。例によって酒も入り夜を徹してギター三昧を楽しんだ後、会の名前についての話がでた。いくつかの案の中で、徹夜でギターを弾き楽しむ会なのだから、単純明解、そっくりそのまま「徹弾会」とすぐに決まった。しかし、最近はメンバーも高齢化し徹夜で弾く(いや弾ける体力の)人は誰もいなくなってしまい、今にしてはちょっと名前が現実的でなくなった。それに名前も厳めしいので、見直そうという話も出た。しかし、徹弾会の名前が会の歴史を表わし、変えるべきでないという意見からこの名を踏襲している。それだけこの徹弾会には既に伝統のようなものまで備わってきているから凄いと思う。そもそも東北大学ギタークラブOBの在京メンバーで、しかもギター重奏が主体の会で発足した徹弾会だったが、年を経る毎にメンバーもギターだけでなく、音楽の輪は広がった。今や同じ大学出身で作曲家の星重昭氏を始め、メンバーの音楽仲間も加わり、自由で楽しい音楽サークルに変遷してきた。この間、助川氏の薦めもあり思い切って1989年に徹弾会の重奏用に編曲してきた曲集を集め、初めて自費出版を試みた(「輝けるギター重奏曲集」龍吟社)。そして、その年の5月の徹弾会は、宮川宅でこの重奏曲集の試奏会となった。音楽評論家の濱田滋郎先生も駆けつけてくれて、その会は大変に盛り上がった(1989年 現代ギター 6月号参照)。この会は当然ながら今尚健在で年々盛んである。ちなみに平成12年の徹弾会は前述のメンバーの一人、植松氏の経営する音楽ペンションG-CLEFで行われた。今回は若手OBやバイオリニストも参加していただき、またまた音楽の輪が広がった。ところで次回は遂に私を含む助川氏、永倉氏3人の還暦記念の会になるらしい。寂しさと嬉しさが混じった複雑な気持であるが、こうなりゃー開き直って、これを節目にギター万歳、ギター礼讃路線を益々強めようと決心している。


   夢想爺(六十路)ギターに幸あれ!

(2001年3月記)